高速試験機「研三」の栄光と挫折

<strong>航研機</strong>レプリカ

1903年12月にライト兄弟のライト・フライヤー号が59秒間にわたって地上260メートルの空を48 km/h で飛翔して以来、航空機の開発・製造・操縦に携わる人たちは「より長く」、「より高く」、「より速く」の夢を追い求めて来た。研三はそのうち「より速く」の夢を叶えようとするものだった。

東京帝国大学航空研究所(戦後東大宇宙航空研究所として復活し、現在は宇宙科学研究所 – JAXA と呼ばれている)は既に1938年5月にその航研機を以って「より長く」の部門で世界記録を樹立していたが、その翌年「より速く」への挑戦を開始した。それに先立って始動した高度記録を目指すプロジェクトが「航二」と名づけられていたため、速度記録の方は「航三」と命名されるべきものだったが、「航三」は「降参」に通じるという他愛のない理由から「研三」と呼ばれるようになった。研三はまた、当時の陸軍のフォーマットに従いキー78というコードネームを与えられた。

既に「航一」、すなわち航研機、で主尾翼、燃料槽および車輪カバーの設計を担当し、その独創的な発想で名を上げていた山本峰雄研三の主任設計者に任命された。まだ30代半ばの若造だった彼にとって研三プロジェクトはやり甲斐がある仕事だったというだけでなく、航研機に比べてやり易い仕事だったと思われる。航研機の場合、プロジェクト内部の軋轢が非常に大きなものだったからだ。当時は勿論ネットワーク上での Concurrent Engineering (同時進行型エンジニアリング)の手法も手段もなかったため、生身の人間同士のぶつかり合いが絶えず、時には山本峰雄も殴り合いに巻き込まれることがあったようだ。殴り合いの勝負でどちらに軍配が上ったのか定かではない。筆者の記憶するところでは、父親峰雄が家庭でこのことに触れたことはなかったし、もともとスポーツマンではあったが格闘技は苦手だったようなので、恐らく彼が負ける場合が多かったのだと思う。しかし、比較的小規模な研三プロジェクトでは、プロジェクト・メンバーと腕力で勝負する必要はなく、彼の独創的なデザイン・コンセプトを理屈で押し通すことが出来たようだ。

液冷式エンジンの採用に拘った山本峰雄は、当時の国産エンジンの主流が空冷であったため、ダイムラー・ベンツ社の液冷エンジン DB 601 Aa を輸入し、その推力を1,175馬力から1,500馬力に上げることにより、目標とする800~850 km/h の達成が可能であると考えた。生涯を通じて「ナショナリズム」に身を委ねることができなかった彼は「純国産」などということよりも、自分の設計した飛行機が速度記録を作ることを重視したのだと思う。機体の製作は、液冷エンジン搭載の航空機製造に比較的豊富な経験を持つ川崎航空機(主として岐阜工場)に委ねられることとなった。

研三は数年にわたって試験飛行を繰り返したあと、1943年12月27日の飛行で 699.9 km/h を計測した。これが日本でのレシプロ推進機による速度記録となった。このときのテスト・パイロット荒蒔少佐は「山本先生のために死ぬ」覚悟で機に乗り込んだという。この飛行はまだ中間段階でのテストに過ぎなかったが、急激な戦局の悪化に伴い、試験機のことなど考える余裕がなくなっていた軍部の指示で、このプロジェクトは間もなく打ち切りとなった。

当時世界記録を保持していたのはドイツのMesserschmitt Me 209 V1で、1939年、山本峰雄が BMW、ダイムラー・ベンツ、ハインケル、ユンカース等の視察のためにドイツに滞在していた時期に、755.14 km/h という速度記録を樹立していた。この記録は戦後 1969年になってアメリカの Grumman F8F 改良型が 777.36 km/h を記録するまで破られることがなかった。

日本でも、航研機研三により航空技術がいっとき世界の最高水準を極めた時期があるということを懐かしみ、手放しで賛美する人が多いが、筆者はこういう人たちと多少意見を異にする。長距離試験機、高速試験機はあくまで実用機ではなく、操縦性、安全性、戦闘能力、量産に耐えうる経済性などは度外視したものだったからだ。

Jimmy Doolittle 率いる B-25中型爆撃機16機が、空母ホーネットを飛び立ち日本本土の主要都市(東京、横浜、神戸、大阪等)を空爆したのは真珠湾奇襲から半年も経たない1942年4月18日のことである。この双発爆撃機は1938年からノースアメリカン航空社が開発を進めていたものだが、既に最大速度442 km/h (巡航速度 370 km/h)、最大上昇限度 7,600 mで4,300 kmを飛行することが出来た。

空襲を受けた都市での人的被害は合計50名と軽微であったが、これが緒戦での連合軍の劣勢を挽回する契機となったのは事実である。雑誌名の記憶は薄れているが、ある月刊誌に寄稿した山本峰雄は、その中で軍部を批判し、空を制する者が太平洋戦争に勝利するということを彼らが理解しない限り日本の敗戦は避けられないという持論を展開した。勿論その雑誌は差し止めされたが、山本峰雄自身は特高に身柄を拘束されることがなかった。軍部はなお彼のブレーンを必要としていたためである。

B-29 がマリアナ諸島、テニアン、サイパンなどから大挙して日本各地を空爆し始めたのは1944年11月からであるが、我々戦前派・戦中派の人間にとって妙に懐かしい「空飛ぶ要塞」は、4.5トンの爆弾を搭載して、最高 574 km/h (巡航速度:350 km/h)で、高度10,200 mの成層圏を 5,200 km にわたって飛び続けることが出来た。毎日のように日本の上空に飛来する B-29 の大群に向かって高射砲が結核患者の弱々しい咳払いのような音を立てて発射されていたのを覚えている人も多いだろう。これで B-29が撃ち落とされたという話を聞いたことがない。砲弾が全く届かなかったのだ。

妻や子供の私たちを疎開先に送り出した後、東京に一人残った峰雄はしばしば自宅の庭からB-29の残す飛行機雲の写真を撮っていた。成層圏を飛行する機体は殆ど肉眼で見ることが出来なかったため、飛行機雲の写真で我慢したのであろう。私自身も学童疎開先の伊豆長岡の山中から、毎日のように駿河湾から侵入して東京に向かう豆粒のような機影と幾条もの飛行機雲をうっとりと眺めていた。

その後、家族とともに疎開先を山形県に移した筆者は幾度となく Grumman F6F Hellcat (610 km/h)等多数の艦載機が近くの酒田港を襲撃するのを目撃したが、そのたびに戦争映画でも観ているように気持ちが高揚したのを覚えている。峰雄も家族と束の間の休暇を過ごすため山形に来るたびに、軍需工場の敷地内で機銃掃射を浴びせられ林の中を逃げ惑ったことなどを実に楽しそうに話していた。Enola Gay の犠牲になった方々には申し訳ない気がしないでもないが、峰雄も私も、米軍機の雄姿に対して恐怖や憎しみよりも憧憬に近い気持ちを抱いていたのだと思う。筆者は、高速試験機研三プロジェクトが800~850 km/hの世界記録を達成することなく解散させられたという無念の気持ちが、この時期峰雄の胸裏を去ることがなかったのであろうと推測している。

山本峰雄等優れた日本人航空技術者が「より長く」、「より速く」を目指して築き上げた世界レベルの技術は、軍部が意図した国威発揚には役立ったかも知れないが、実際にはその技術は実戦に応用されることなく終わった。筆者はここに、戦中・戦後を問わず進取の気性に富む技術者たちの果てしない夢と真摯な努力が滅多に実用に結びつくことのない日本の特異な社会風土を見ないわけには行かない。

太平洋戦争末期に「桜花」という特攻兵器が開発された。この開発にも東京帝大航空研究所から木村秀政氏、谷一郎氏等が参画している。この自爆用航空機、と言うより有人誘導式ミサイルは、水平飛行で648 km/h を記録したとされている。(急降下時の速度は 1,040 km/h)。しかし航続距離は何と37 km であった。ターゲットの至近距離に達するまでは時速400 kmの「一式陸攻」といわれる親機によって運ばれ、かつ桜花の出撃は常に復路のない旅だったので、37 km の航続距離で十分だったのだ。連合軍側ではこの桜花に「BAKA」というあだ名を付けていた。

山本峰雄サイバー・ミュージアム 山本 雄一

 

高速試験機「研三」設計記

キー78(研三)設計記