東京帝国大学航空研究所(その後東大宇宙航空研究所を経て現在は宇宙科学研究所 -JAXA)で開発された航空研究所長距離機 – 通称航研機 – は1938年5月13日から5月15日にかけて、木更津・銚子・太田・平塚・木更津の周回コースにおいて、FAI (国際航空連盟)が規定する4種目のうち2種目で世界記録を樹立した。即ち、周回航続距離(11,651.011 km)と10,000 km コース上での速度記録(186.197 km/h)である。戦後、当機は解体され羽田空港近くの地中に埋められたというのが通説となっている。当サイトでは長年日本の航空技術史を研究されて来た青森県立三沢航空科学館館長大柳繁造氏から以下の貴重な寄稿を頂くことが出来たことにつき、同氏に深甚の謝意を表するものである。

山本峰雄先生と航空機のこと

大柳繁造

大柳繁造(トヨタカローラ青森会長)

  • 1933年   青森市新安方町に生まれる
  • 1956年   東京理科大学理学部物理学科卒業
  • 1962年   パブリカ青森株式会社(トヨタカローラ青森の前身)を設立
  • 1982年   トヨタカローラ青森代表取締役会長に就任、現在に至る
  • 2006年   青森県立三沢航空科学館館長に就任

航研機レプリカ

なぜ青森県立三沢航空科学館に「航研機」の実物大レプリカがあるのか、そして、その機の「引込脚」が、実機同様の動作をして主脚の収納・格納を見せるように造られたのか、を説明することは、この熱烈な提案者であった小生から述べることにしたいのである。 まず、「なぜ青森県三沢市に「航研機」なのか」については、当館設立が鈴木重令三沢市長の永年の夢であった「大空の街・三沢」の町興しの目玉として、当地から昭和6年太平洋無着陸横断飛行を達成した「ミス・ヴィードル号」をメインとする航空博物館建設構想を県に永年にわたって粘り強く要望し、これが実って平成15年8月完成したのであるが、ここでこの館内に展示する実物大の「ミス・ヴィードル号」レプリカ機の他に、“どんなヒコーキを展示するか”が検討されたときに始まったといってよい。

それは、本県出身本邦初の民間飛行士白戸栄之助操縦の「鳳」号・「旭」号そして「巌」号の各機以上に、熱烈に「航研機」復元を要望したのは、当時の設立計画委員の一人であった小生であったのである。この要望の根拠は、小生がこのために執筆した「ヒコーキグラフェテイ・青森県航空史(2)」に「三人のヒコーキ野郎」として、本県出身の航空人の中から、三人の航空人として「航研機」の世界記録達成に深く関与した操縦士藤田雄蔵、設計木村秀政、製作工藤富治の三人を紹介することで、本県と「航研機」との関わりを説得したのである。その結果、当時の木村守男青森県知事のご理解の下に、実物大レプリカ「航研機」の製作が実現されることになったのである。当館内展示の実物大のレプリカ航研機は、こうして実現することになったわけである。
さて、「航研機」となると、すぐ木村秀政先生の設計と世間では言われているようであるが、「航研機」ばかりでなく航空機は、その国が「総合工業力」を結集して出来上がるものであるので、決して一個人によってだけで、出来上がるものではないのである。木村先生がヒコーキ博士として「航研機」のことを随分執筆されていることもあって、このことが定着されたことであって、現実には「航研機」世界記録樹立までには、多くの人たちによる、いろんなドラマがあったのである。
今回は、日本航空学術史編集委員会発行の“東大航空研究所試作長距離機「航研機」”(1999年11月25日発行)、三樹書房発行の富塚清著「航研機―世界記録樹立への軌跡」(1998年11月20日発行)の資料を基にして、当時の山本峰雄先生の業績について私見を述べさせていただきたいのである。 この前著の中の“第二章・航研長距離機の顛末”(冨塚先生執筆)では、設計担当者表があり、山本先生は「機体(特に翼)」となっていて、因みに木村先生は、「脚・性能試験飛行計画」となっている。また、同じ富塚先生の「航研機」では、燃料槽、翼、車輪カバーが山本先生、脚、胴体、尾翼・性能試験・飛行計画が木村先生となっていて、当時の職責分担がうかがわれるのである。そして、両著書によっても、山本先生の苦心された跡を知ることが出来るのである。
もともとヒコーキの設計なるものは、普通は主設計者(ボス)をおいて、その人物が命令権や決定権を一手に握り、設計者の個性豊かなヒコーキを作り出すというのが普通なのに、「航研機」の場合は、「委員会方式」で進めざるをいなかったので、当然一貫性や統一性を欠くものも出たわけで、利点よりも大変な無駄があったわけである。とにかく、航研機で世界記録樹立が唯一不動の目標として、この目標達成のために遮二無二最適な手段を採用して進もうという方針を堅持したのである。

この中にあって、当時新進気鋭の航空研究所々員であった山本先生は、長距離記録達成のための主翼の設計を任せられたわけで、このことは大学助教授としては初体験でもあり、大変な重圧があったものであろうと思うのである。東京帝大航空学科昭和3年卒業の山本先生の一年先輩である木村先生を、小川太一郎先生が航研に引き入れてきたものの、飛行機部には助教授の定員はなく、それで職務表にあるような嘱託(技師)として他の仕事の担当となったわけである。 これらは、本来であれば先輩からしばらく仕事を見習うのが常例であるのだが、航研はその道も通れず、いきなり「ぶっつけ本番」になったといってよかったのである。それに加えて象牙の塔に籠もっている学者先生に何ができるものか、という世間での批判もあって、航研機の製作完成には危惧を感じていたようである。

しかし、製作部門では東京瓦斯電気工業(現在の日野自動車の前身)という松方財閥の会社が、全金属製の飛行機を製作した経験がないにもかかわらず、フランス航空界仕込みの工藤富治(青森県むつ市出身)という一枚看板の工場長を据えて名乗りを上げたのである。工藤は、17年間もフランスのドヴォアチン飛行機会社にいて、製作現場で活躍した技能抜群の人物であったのである。 しかも、このドヴォアチンこそは、フランスの有名な飛行機会社で、1931年(昭和6年)6月、10.372キロメーターの周回世界記録を樹立していたのである。(この間の事情は、拙著「ヒコーキグラフェテイ・青森県航空史(2)」に詳しく掲載されているので、参照されたい)これは実に好都合な状況にあったわけで、しかも山本先生が採用することにしていた主翼の単桁構造も、ドヴォアチーヌD33「トレ・ジュニオン号」が採用し、世界周回記録に主翼の軽量化の面で大いに貢献した主翼構造であったのである。しかし、山本先生は、工藤の推奨するドヴォアチーヌ飛行会社で体験した蝶番構造は、主翼のねじり剛性が十分でないことを指摘して、これとは異なる単桁構造で、曲げは単桁で、ねじりはその前後方に張り出すように取り付けられたブレーシングで取るような構造としたのである。そして、燃料タンクは、その内部に格納することにしたのである。しかし、これは主翼単位面積の重量を大きく軽減することが出来たが、小骨が多くなる構造となり、工作上は大変な難しさを伴ったのである。設計図面を書くことでは得意の山本先生であったが、工作側のことは考慮外にあったことから、東京瓦斯電気側の工藤氏と議論になり、遂にはこれが爆発して暴力沙汰にまでなる始末であったのである。
「俺がよいというのは、使ってみて絶対の自信があるから薦めるのであって、悪いものは薦めないよ」というドヴォアチーヌの記録達成機を製作した実績をアピールしたが、山本先生も頑として譲らず、主翼のねじり剛性が不足することで、蝶番結合の採用にはならなかったのである。山本先生は、蝶番結合を精密に行う専用機械がないことで賛成できなかったのである。こうして、先に周回長距離飛行で世界記録を樹立していたドヴォアチーヌD33「トレ・ジュニオン号」の単桁構造とは相異することで、少なくとも模倣姉妹機の誹りは免れたといってよかったのである。だが、この構造は、航空界がモノコック構造に向いつつある中で、外翼部分は羽布張りにドープを丹念に11回も塗布して平滑仕上げして、空気抵抗を少なくするという工夫がされていたのである。
これは山本先生の執念の構造といえるものであったのである。同じような例として、イギリス・ヴィッカース社の長距離爆撃機「ウエルズレー」の「大圏構造」をあげ、この機による長距離(直線飛行)世界記録樹立を引き合いに出しているのである。こうしたこともあって、自分の設計思想を貫くことで「不譲の山本」といわれることになったのである。「航研機」のパイロットの藤田雄蔵大尉(当時)は、陸軍きっての名操縦士と称された人物であったが、人間的にも軍人らしからぬ人柄から、工員たちにも親しまれたというが、一方、山本先生は、「不譲の技術者」として、技術的な良心に基づいた行動を一貫して取ったのである。
航研機」は、こうして「禅譲の藤田」、「不譲の山本」といわれる個性的なメンバーによって、世界記録への結束が固まっていったといってよかったのである。

山本先生は、引込脚のカバーについても、執念の取り組み方を示したのである。引込脚を完全に主翼内に格納し、完全に平滑な翼面にするという理想的な脚収納を実現したのである。空力的にも完璧な「鎧戸(よろいど)方式」のカバーは、機構的にも前代未聞のものであったのである。これなどは、航研の特技である空力面での気配りで、執念を燃やして設計した結晶であろうかと思われるもので、小生がレプリカで引込脚動作の再現に固執して実現させたほどである。それは引込脚の技術が世界の航空界でも、まだ手探りの状況であった時代の遺物として、是非これの再現に固執した小生の気持ちも察していただきたいのである。 こうしてみると、「委員会方式」で設計製作されてどうやら世界記録を樹立した「航研機」であるが、当時の世界での航空技術の進歩たるや日進月歩で、「航研機」が研究試験機として世界記録を樹立した翌年には、イタリヤの実用機によって、いとも簡単に記録を破られるというほど、続々と世界記録のラッシュが生まれた時代でもあったのである。 日本人による初めての世界記録に挑戦した「航研機」の周回飛行(木更津―銚子―太田―平塚-木更津と回る周回飛行)の実況ラジオ中継には、まるでオリンピック中継を上回るかのような熱狂的声援が送られたのである。もはや舶来品崇拝からの脱却をして、日本人の開発力・技術力による世界記録を、日本全国が自国の技術に信頼性に覚え、これを誇りと感じさせる飛行時間であったのである。

こうした感激も、機体の遺棄と共に戦後は忘れられ、航空に対する日本人の誇りも消えうせてしまった中で、記録樹立から60余年後に、レプリカながら本物よりも出来がよいとも言われる?「航研機」レプリカが、当県立三沢航空科学館に登場したことは意義があること、であると考えるのである。